ノーベル賞候補と言われる中部大学教授の山本尚さんの「日本人は論理的なくてよい」という本を読んでいます。とても興味深く面白い本です。本の中で、ユングのタイプ論で人は意識が内に向かう内向型と外に向かう外向型に分けられる、判断するときに論的に判断する思考型と気持ちで判断する気持ち型に分けられるという説明があります。必ずしも良悪の話ではないのですが、米国で仕事を始めた時に、日本での仕事と大きく違うなと思ったのが、日本は物事(治療方針など)を決める時も感覚的な話がほとんどでしたが、米国ではとにかく数字の羅列で客観的に論理的に決めていると感じました。20年以上前と現在では若干の違いはありますが、日本の医療現場は(コロナの話抜きでも)忙し過ぎて、とにかく目の前のことを右から左に片付けるという感じがあり余裕がありません。そんな中で大事な治療方針を決めるにしても種々の数字(死亡率、再発率、副作用の頻度などなど)を列挙して決めるという雰囲気はありませんでした(現在ではだいぶ変わってきましたが)。また、聞いている患者さんも「数字並べられてもわかない、先生はどう思うの、何が良いと思うの」みたいな話になることが多かったです。論理的思考がないわけではありませんが感覚的は判断を大切にすると言っても良いかもしれません。良く例えとして日本は芸術的、米国は科学的な医療をしていると言っていました。芸術ですから個々で違っても間違いではないし、自信満々です。普通に考えると論理的・科学的が医療の本来の姿だと思います。しかし、それにも問題があると感じます。非常にドライな感じで、良い数字の羅列であれば患者さんにとっては喜ばしいのですが、悪い数字では、これがこうだから仕方がないとすぐ切り捨てられる感じがします(こういう自分の感覚も感覚的思考なんだと思いますが)。学会での論戦も米国では論理的な考え方の戦いですが、日本では一見論理的な戦いに見えて実は最初から感覚的な議論で結局噛み合わないということが良くあります。なので米国での学会では結果的に勉強になったなーという気持ちになりますが、日本ではなんかスッキリしない感じ(泌尿器科医的には残尿感という感じ)があります。 現在は多くの病気に対して標準的な良い治療、ガイドラインがありますので、医者の芸術的思考が入る余地は少なく、論理的に統計学的に決めていこうという意識があります。この本のタイトルの様に、必ずしも日本人は論理的でなくても良くて、それが素晴らしいノーベル賞級の発見につながるのだと思います。論理的思考もしっかりできる様勉強しつつ、それでも自分も患者さんも持っている日本人的な感覚も大切にして診療したいと感じます。